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尼崎の文化財

尼崎の指定文化財 尼崎の指定文化財

守部観音堂再興関係資料
  • 指 定 尼崎市指定文化財
  • 種 別 歴史資料
  • 数 量 5件
  • 所在地 尼崎市南武庫之荘8丁目15番8号
  • 所有者 守部素盞嗚神社氏子会 他
  • 指定日 平成23年3月24日
南武庫之荘8丁目の守部素盞嗚神社(もりべすさのおじんじゃ)境内にある守部観音堂に伝来する仏像(紙製)、仏画、棟札、鰐口など5件の文化財で、守部観音堂が江戸時代前期の延宝(えんぽう)8年(1680)5月に神宮寺(じんぐうじ)(神社に附属して建てられた寺院・仏堂)として再興された経緯を示す、地元に残る数少ない歴史資料です。
江戸時代前期の文化の中心であった後水尾天皇や光子内親王が制作に関わった紙製仏像や仏画が泉涌寺を通して守部観音堂に伝えられたことは、当時の上方文化の地方伝播や泉涌寺の布教活動の一端を伝えています。紙製の仏像は調査例が少なく、聖観音菩薩立像はその制作技法も含めて注目される資料です。棟札や普賢菩薩立像からは、旗本佐藤氏と知行地である守部村との関わりを示しています。

聖観音菩薩立像 しょうかんのんぼさつりゅうぞうおよびぞうないのうにゅうもんじょだんかん 聖観音菩薩立像及び像内納入文書断簡 1躯及び一括

聖観音菩薩立像
聖観音菩薩立像正面(左)(拡大522×800 191kb 別窓)と背面(左)
聖観音菩薩立像は像高40.6センチの紙製の仏像です。背面には、後水尾法皇(ごみずのおほうおう)が亡き息子の後光明天皇の手紙で作らせ、万治3年(1660)に皇室の菩提寺泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭戒光寺に安置したという由緒を、同寺の僧天圭照周(てんけいしょうしゅう)が記した墨書があります。脚部の修理時に像内から大量の文書(もんじょ)の断片が取り出されました。
像内の文書断簡

像内の文書断簡

絹本著色十一面観音菩薩像 けんぽんちゃくしょくじゅういちめんかんのんぼさつぞう 絹本著色十一面観音菩薩像 1幅

絹本著色十一面観音菩薩像
絹本著色十一面観音菩薩像(拡大398×644 325kb 別窓)
絹本著色十一面観音菩薩像は後水尾天皇の第八皇女緋宮光子(あけのみやてるこ)内親王(ないしんのう)の筆によるもので、守部観音堂再興時に泉涌寺(せんにゅうじ)の僧天圭照周(てんけいしょうしゅう)から下げ渡されたものであることを示す添書があります。
添書

添書

棟札 むなふだ(えんぽう8ねん5がつ18にちめい) 棟札(延宝8年5月17日銘) 1枚

棟札(延宝8年5月17日銘)
棟札(表面左・裏面右)拡大(500×850 126kb 別窓)
棟札は延宝8年(1680)5月17日の銘があり、守部観音堂が再興、建立された年次がわかる唯一の資料です。

鰐口(延宝8年5月吉日銘 わにぐち(えんぽう8ねん5がつきちじつめい) 鰐口(延宝8年5月吉日銘) 1口

鰐口(延宝8年5月吉日銘
拡大(689×600 95.5kb 別窓)
鰐口は延宝8年5月吉日の銘があり、守部観音堂再興にあわせて奉納されたものす。

普賢菩薩立像及び厨子 ふげんぼさつりゅうぞうおよびずし 普賢菩薩立像及び厨子 1躯及び1基

普賢菩薩立像及び厨子
拡大(533×850 137kb 別窓)
普賢菩薩立像は厨子背面に守部観音堂再興にも関わった守部村領主の旗本佐藤信次が再興の翌年正月に奉納したものであることを示す墨書があります。
厨子の背面

厨子の背面

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