
天正14年(1586)10月4日付けで豊臣秀吉が摂津国川辺郡富田(とうだ)村の430石の地を堀田三左衛門尉に与えることを伝えた朱印状です。
富田村は尼崎市北東部の東園田町1~2丁目付近に所在し、これまでは慶長10年(1605)の「慶長十年摂津国絵図」(西宮市所蔵、兵庫県指定文化財、「畠(富)田村」と記載)が初見の文献資料とされてきましたが、それよりも年代が遡ります。
堀田三左衛門尉は豊臣秀吉に馬廻(うままわり)として仕え、文禄元年(1592)の朝鮮出兵では前線基地の肥前名護屋城に在陣していますが、実名や生没年など詳しい経歴はわかっていません。また、「赤見分」とあることから、富田村は赤見氏領となっていた可能性が考えられます。
安土桃山時代の尼崎は荒木村重没落後、池田恒興、三好信吉(豊臣秀次)領を経て、天正13年(1585)以降に豊臣氏の直轄領(蔵入地(くらいりち))となりましたが、その範囲を含め未解明な点は少なくありません。富田村の初見の文献資料となるこの豊臣秀吉朱印状から、尼崎周辺に蔵入地以外の武家領があったことがわかります。また、現市域に関する現存唯一の所領給付の豊臣秀吉朱印状でもあり、安土桃山時代の尼崎における支配関係を具体的に知ることができる貴重な資料といえます。
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